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《実存哲学》の系譜 第一部哲学史の中のキェルケゴール

今回は「《実存哲学》の系譜」の要約をしたいと思います。まず第一部から。

この講談社選書メチエは好みの本が多いので探す時に助かってます。「メチエ 一覧」で調べるだけで気になる本がたくさん出るので。

実存哲学とは

まず実存とは何かを説明する必要があります。実存とは、事物の本質が存在を付与されて現実に現前するようになった事物の在り方です。椅子というものが私たちの前に現れてくるのは座るという本質があるからです。そうでなければ「椅子」として現れてきません。この考えを人間に限定して考えるのが現代の実存の概念です。

この本での実存哲学は「神との接続を絶たれた不安と孤独と絶望の中で、主体的に、他者たちの責任を担って、自己の在り方を自由に決断して作り上げていこうとする思想」と書かれています。

ちなみに有名な言葉「実存は本質に先立つ」は、神や生物学によって本質が与えられるのではなく、本質とは自らが見出していくものだという意味だと思います。

つまり、どんな不安も受け入れ自らの力で選択して生きていくしかない、そしてその答えは自分の中にしかないということです。西洋で生まれた哲学ですがどこか日本になじみのあるような… 仏教の悟りと実存主義における人間の本来の生き方は似ているような気がします。

実存哲学におけるキェルケゴール

キェルケゴールは実存という概念を人間に初めて限定して考えた存在です。キェルケゴールの中でも特に注目されたのが実存の心理学的研究でした。「死に至る病」で現れる絶望といった心理が哲学に注目されたのでした。ここで注目したい概念は「不安」と「自己」です。キェルケゴールの概念にはキリスト教的価値観が現れてくるためすこし理解しづらいところがあります。

キェルケゴールによる実存の不安とは、「精神の在り方が人間に委ねられていることからくる自由の可能性の現れ」です。この不安というのは二つに分けることができ、「その不安の中で個人が質的飛躍によって罪を定立する不安」と「罪とともに入り込んでいる、そして入り込んでくる不安」です。一つ目についてはキリスト教の原罪(アダムとイブの話)を心理学的に説明するためのもののように思われるので二つ目に注目します。人間は自由であるがゆえに罪を犯してしまうのではないかという可能性に不安を感じるといいます。なぜここに不安を感じるのでしょうか。人間が本質的に罪を犯してはならないと知っているからでしょうか。

そしてキェルケゴールによる自己とは「精神としての人間を、その人間自身の視点で捉えなおしたところに現れる概念」です。これは自己意識が自らの意識を捉えるようになり自己が生まれるということでしょう。そして絶望とは「人間が自己として措定されていながらも、それでも様々な仕方で自己のことを、そしてまた他者(神)のことをないがしろにしてしまうあり方」のことです。自己意識と意識の間に矛盾が生まれ、さらにその矛盾が他者に向いてしまうことがあります。「こんなこと言うつもりなかったのに」、「本当はこうありたいのに」などなど、自己意識が考えるセルフイメージとそれが捉えた自らは矛盾していることがあります。ちなみに最高度の絶望とは「自己として措定されていること自体に対して反抗的になり、自分を他者(神)の失敗作として顕示したがるような状態」です。

人は自由であるがゆえにそこに自己矛盾を抱え、不安を抱くのでしょう。ここまで見てきたようにキェルケゴールの概念には罪、神などのキリスト教的価値観が出てきて掴みづらいところがあります。次に紹介する哲学者はこのキリスト教的価値観を排除し人の実存を捉えようと試みます。

三人の実存哲学者とキェルケゴール

ハイデガー存在と時間」…哲学的考察に不安の概念を取り入れる

ハイデガーによると、人間は死が確定していて、かついつ訪れるかわからないからこそ、そこに不安を感じるのだと考えます。死によって自分が無となることへの不安です。ここからハイデガーは死を恐れ逃避しようとするあり方を非本来的とします。そしてむしろ不安を契機として死と向き合うことで本来的な生き方ができるのだと考えます。

人間は事物と異なり在り方が未規定であり、自由な自己関係を通じてあり方を形成していくように実存している。そして人間の在り方に伏在する無から不安が生じる。と考える点でキェルケゴールハイデガーは共通します。

不安は人間が自由であることをあらわにしますが、その不安が非本来的な生き方に導くこともあります。だからこそ自分を見つめ続けなければなりません。

残り二人(サルトルヤスパース)の哲学者の話は割愛します。なぜなら筆者の主張はキェルケゴールの実存哲学がどのように受け継がれてきたのか見ることではないからです。筆者の主張は「彼の言葉、概念を哲学という知的活動を推し進めるために有効活用しうる素材の一つとみなすだけではいけない」というものです。それではキェルケゴールが、哲学を通して自らと他人の魂を優れたものにしようとした試みの全てを理解することができないからです。

感想

ここまでの流れだとキェルケゴールが不安や絶望といった心理学的分析から、人はどのように生きるべきなのかのは記されていません。不安という心理と実存はどのような関係にあるのでしょうか。おそらく次の部で明らかになります。また著者はこのキリスト教的価値観をどのように解釈することで我々日本人にキェルケゴールの実存哲学を伝えようとするのかも楽しみなところです。